古いアルバムに、戦争中の父の写真が3枚だけ残されている。
1枚目には、「20年 予科練時代」とある。
2枚目には、「20年4月23日、尾花沢にて」とある。
出征で故郷を出る時に撮ったものだろう。
3枚目には、「特攻隊の覚悟新たに、遺書用として」、
裏には「海軍一等飛行兵20歳 海軍電測学校兵舎前」と書かれている。
私が子どもの頃に、写真がこれだけしかないのかと聞いたことがあるが、父は軍隊から帰る時にすべて焼いてしまったのだと答えた。
戦争に負けた時に、部隊は解散するから勝手に帰れと命令が出たのだという。
もしアメリカに捕まって、特攻隊だとわかったら殺されるかもしれないから、部隊の文書類はすべて焼くように言われて、あの日(敗戦の日)に、兵隊みんなで写真や身元のわかるものもすべて焼いて逃げてきたのだと話していた。
これらの写真は、遺影用に実家へ送っておいたので残っていたらしい。
父はめったに軍隊や戦争の話をしなかったが、
『オレは特攻隊だったんだけど、乗る飛行機がなくてなあ。毎日、穴掘りさせられながら、順番を待ってたんだ』
『終戦があと1か月遅かったら、自分はこの世にはいなかったんだよ』
『そしたらおまえも生まれてこなかったんだなあ』
と、酒を飲みながらしみじみと語ってくれたことがあった。
特攻での死が、戦局にはまったく影響を与えることはないだろうということも、当時からわかっていたらしかった。
また何度かは、
『軍隊ってとこはひでえとこだぞ』
『人を殴って喜んでるヤツばっかりで、オレもさんざんやられた』
『オレは天皇のヤツにはひどい目に遭わされたんだ』
とも話していた。
(敗戦直後には、復員兵の間では「テンスケ」「テンチャン」「テンノウノヤロウ」などと罵って怒りをぶつけていたらしい)。
だからであろうか、父は靖国神社へ足を向けることはなかった。
故郷から祖父母たちが上京して靖国神社にお詣りしたときにも母に同行させて、父はヤスクニへ行くことはなかった。
『死んでったヤツらが、靖国神社になんか、いるもんか』と、父が一度だけ、吐き捨てるように言ったことがあった。
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故・猪股清彦 大正15年1月2日生まれ
平成18年4月25日死去(享年80歳)
軍歴証明書には次のように書かれている。
昭和20年4月25日 海軍電測学校入校 海軍2等飛行兵
昭和20年9月 1日 現役満期 海軍飛行兵長
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これまで私はこのブログにもホームページにも、私のプライベートなことを書いたことはありません。
しかし、父が戦争中は予科練にいて、特攻に行っていたかも知れぬ事実と、わずかながら聞かされていた戦争や軍隊の話を記しておきたい、書いておく必要があるとは考えていました。
父が亡くなって9年になり、母の七回忌も先日終えたので、この辺で一度、書いておくことにしました。